舞台『○○な人の末路~僕たちの選んだ××な選択~』を見た1オタクの末路

タイトルの通りです。つまりは感想ブログです。

一切の配慮なくネタバレします。あと内容の偏りについてはご容赦ください。

また、書き手はWEBFES出の二階堂担であるため、今回受注生産されたDVDを鑑賞しての感想となります。

 

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月side→海sideの順番で見ました。

この作品の1番大きな選択は、「未来へ進みかけたコマを一度停止しても《過去》に向き合うか」「過去について蓋をしたまま一旦《未来》へコマを進めてみるか」という2択だったように思う。

そして《過去》を選んだ末路を描くのが海side、《未来》を選んだ末路を描くのが月sideである。

どちらがハッピーエンドだったか(=救いの多い末路を選ぶことができたのか)、というのはそれこそ見た人の判断に委ねられるのだろう。

どちらを選んだとしても、最終的に敏幸は互いに想い合う恋人と結ばれ、陽左志はいずれ訪れるであろう幸福が約束される。

だからこそ、そこに至るプロセスのどちらに納得したかで、ハッピーエンドと見なす末路が決まるのではないだろうか。

 

私個人としては、「海」にハッピーエンドを見出しました。

「月」は表面上はハッピーエンドだが、どこかわだかまりの残る終わり方と受け止めました。

  

という書き手の立場表明を踏まえて、以降、各sideの物語についての話や演者の話をしていきたいと思います。まとまりがなく、読みづらい文章であることを、あらかじめお断りしておきます。また、個人の解釈の話となりますので、思ったことを正直に書いておりますが、事実の誤認等ございましたらすみません。

 

まず物語について。

「月」と「海」の違いについて、以下の観点を踏まえて考察(になってんのかな?)していきたいと思います。

観点①:陽左志の罪の告白を聞いた敏幸の表情

観点②:陽左志の罪の告白が果たす役割

 

で、考察入ろうと思いましたが、あまりにも長くなったので先に結論言っちゃいます。

 

■結論

笑原兄弟の選択の末路には、それぞれ以下がありました。

《未来》の場合(月Sideの場合):兄弟の独立、そして別離

《過去》の場合(海Sideの場合):兄弟・家族のつながりの強化

また、陽左志の罪への向き合い方も、こう結論づけられるのではないかな。

月Sideの場合:罪自体からは解放されるが、敏幸から赦されたとは言い切れない

海Sideの場合:罪自体は残り続けるが、敏幸からは赦される

 

この結論に至る根拠はこの下の矢印で括った部分に書いているので、元気があったら読んでください。 

 

↓ ↓ ↓ はじめ ↓ ↓ ↓ 

 

■月side

「月」は、敏幸が(文字通りの)“明るい”未来を掴み取る物語である。

失踪した父との再会ではなく、モデルとの面接を優先したことが、元眼科医と知り合うきっかけとなり、そこから繋がった縁で、視力を回復させる手術を受ける道を選ぶことができた。カメラマンとしてのキャリアも約束されたものとなり、生涯を共にする伴侶を得、手を取り合って歩んでいく。

月sideは、少なくとも敏幸にとってはこの上ないハッピーエンドかと思う。

ただ、一見明るく見えるこのエンドの影には、きっと笑原兄弟が抱え続けることになる禍根が残っているのではないかとも感じた。

彼らは父親が自分たちの元を去ったことの真相を知らないままこの先も生きていくのだろうし、実は敏幸と陽左志の間の確執は、解消されていないのだとも思う。

そう思う理由の最たるものは、観点①にも挙げた、陽左志の罪の告白を聞いた敏幸の表情である。

「月」の敏幸は陽左志が自分が失明するきっかけが弟にあることを知ったとき、怒りや憎しみ、恨みを抑えきれないような表情を浮かべた。しかし、何かを言い聞かせるように目を閉じ、呼吸を二三した後、再び笑って陽左志の罪を許す言葉をかける。

この一連の表情変化に、敏幸は陽左志を感情面では許しきることはできないが、表面上は陽左志を許すことにしたのだ、と感じた。

「月」の笑原兄弟にはどことなく緊張感が終始漂っていたように思う。彼らは随分理性的に話をするが、お互いやや表情が固い。でも嘘をついているからそうなるのではなく、どちらも嘘をつくことが得意ではないからこそ、表情や声を装うことができないのだと思う。

「月」の陽左志は、コントパートでは「海」の陽左志に比べて随分全力で大きくリアクションをするものの*1、普段は持ち前の繊細さが表情に滲み、自分の罪の重さに引きずられているがゆえにややぶっきらぼうな印象も受ける。

「月」の陽左志は、そういった面からも、自分の感情に正直な人間なのだと察することができる。

「月」の敏幸も、表情の雄弁さでは陽左志に引けを取らない。むしろ表情がすべてを物語るかのように、絶えず動き、何かを語りかけている。言葉も裏表を感じさせることがなく、感情の乗せ方もどちらかというとシンプルで複合的ではない(単純明快というわけでもないが)。

だから、「失明する前最後に見た弟の顔が怒った顔だったから、もう一度笑った顔を見たい」という言葉は敏幸の本心なのだろうと思う。おそらく彼の弟を想う気持ちは本物で、だからこそ、失明する直前の陽左志との喧嘩では鬼気迫る表情を浮かべ、声を荒げていたのだと思う。

このように、どちらかというと自分に正直な「月」の笑原兄弟は、嘘が苦手であるためにかえってぎこちなさを抱えている

また、陽左志の罪の告白が持つ役割についても、「海」とは明確な違いがある。

「月」で陽左志が敏幸に罪を告白するきっかけは、敏幸の目が見えるようになるかもしれない、つまりは、敏幸を突き落とした犯人が弟の陽左志であることに、敏幸本人が気づいてしまうかもしれない、という可能性がちらついたためだった。悪い言い方をすると、やや自己保身的な理由から陽左志は告白を選択している。ただ、きっかけが自己保身にあったとはいえ、彼は彼なりの償いを果たす。それが、兄の手術費用を捻出するために、長年暮らした土地を売ることだった。

以上を踏まえて、観点②:陽左志の罪の告白が果たす役割を考えると、「月」の陽左志の告白は、兄弟の在り方をリセットする役割を果たしていたのかもしれない。

陽左志が罪を泣きながら告白し、敏幸が悩みながらも許す姿勢を見せた後、最終シーンでは、破壊された兄弟の部屋、そこからクレーンが三日月のように覗き、その隙間から漏れる月光が舞台上を照らしていた。

破壊された兄弟の部屋は、敏幸と陽左志が家族としてのつながりを断ったことを意味すると考えていいだろう。

この時考えたいのが、この作品において「土地」が持つ意味であるが、海月が立ち退きを告げられた時、家族との思い出を手放せと言うのか、と泣いて訴えていた点にヒントを得ると、この物語において「土地=家族のつながり」と見なしても問題はないだろう。一度土地を手放すことで、彼らは思い出や過去を手放し、一緒に暮らすことを放棄した。結果、以前の生活の場は壊され、元に戻ることはなかった。

その上、手術を終えて帰ってきた敏幸は、もう盲目ではない。むしろ失明した伴侶を介助する側に回って、カメラマンとしてのキャリアの一歩をスタートさせる。つまり、敏幸を介助しながら暮らしてきた陽左志という、これまでの笑原兄弟の在り方は、もう成立しないのだ。

そして最終シーンの敏幸は月の光に導かれるかのように、これまでの土地から出て伴侶と歩み、陽左志は商店街の人たちの輪の中にいる。この居場所の違いは、敏幸と陽左志の生きる世界が変わったことを意味するのだろう。

 

■海side

「海」は、償いの物語であり、家族再生の物語でもある。

そして、このsideで彼らが絶えず向き合うこととなったのは、自ら抱えた「罪」の意識だ。

「海」では、「月」で語られることのなかった敏幸の負い目が語られる。それは、敏幸が陽左志の異父兄弟ということである。 敏幸は自分が父と血のつながりを持たないことから、自分は本当に父親に愛されているのか、という不安をずっと抱えて生きている。もしかしたら、笑原家の中で自分だけがよそ者であると考えていたかもしれない。そのために勉強やスポーツ、カメラの技術について努力し、父親に気に入られようとしていた。だからこそ、自分が落下事故をきっかけに失明してしまったせいで、嫌気が差した父親は失踪してしまったのではないかと敏幸は思い込んでいる。

このことから、敏幸は、(自分という存在を除けば)ごく一般的な家庭であった笑原家を、よそ者の自分が壊してしまった、という罪の意識を持っていたのではないだろうか。

対して陽左志の罪の意識は「月」と同様、喧嘩の腹いせに兄を突き落とし、視力を奪ったことにある。ただ、その罪への向き合い方に、「月」との明確な違いがある。

「海」の陽左志が罪を告白するきっかけとなるのは、異母妹から父の治療費を捻出しなければ過去に犯した罪を暴露する、と脅されたためである。つまりは以下の2択だ。

(A)難病の父の治療費を捻出する(=土地を売る)代わりに、敏幸を突き落とした犯人が自分であることを隠し続ける

(B)難病の父を見捨てる(=土地を売らない)代わりに、敏幸を突き落とした犯人が自分であることを明かす

陽左志が選んだのは後者の(B)であり、結果自らの罪を告白するに至るのだが、なぜ陽左志は後者を選んだのだろうか。

その理由としてまず考えられるのは、自分たち家族を捨てて失踪した父を陽左志は憎んでいたということであるが、憎いだけでは後者を選ぶ理由としては弱すぎる。それ以外にも、罪を背負い続けることが苦痛だったから、とも考えられるが、なぜ苦痛だったのか、という点を詳しく考察しない限りは理由として不十分だろう。

ここで、「土地=家族とのつながり」という前提を踏まえてその理由を考えてみよう。陽左志が直面した選択はつまり、自らの保身のために家族とのつながりを捨てるか否か、というものだった。土地を売らない選択をした陽左志は、自己保身の道と家族とのつながりを天秤にかけ、後者を選んだということなのだ。だからこそ、陽左志は敏幸に自らの罪を告白する決断を下すことができたのである。

ただ、陽左志が敏幸と居続けるということは、自らの犯した罪の結果に絶えず向き合わなければならない、ということでもある。陽左志にとって、それは大変苦しいものではあるが、この先もずっと共にいると決めたからこそ、一度すべてを明るみにする必要があったのかもしれない。

ここまでを踏まえて、一度観点②:陽左志の罪の告白が果たす役割について考える。 

「月」での陽左志の告白は兄弟の在り方をリセットする役割であると前述したが、「海」における陽左志の告白には、それぞれが抱える罪の意識から兄弟を解放する役割があったと先に結論付けたい。

罪の”意識”から解放されるには、それぞれの罪への赦しが必要となる。

陽左志の罪の赦しについては、ここでは見たままの解釈をする。陽左志は涙ながらに敏幸へと事件の真相を話し、謝罪し、懺悔することで、敏幸からその罪を赦された。

では敏幸はどうだろうか。これを理解するために必要なのは、観点①:陽左志の罪の告白を聞いた敏幸の表情である。「海」の敏幸は、「月」の敏幸に比べると、陽左志の告白を随分あっさりと受け止め、赦しの言葉をかける。その姿はいっそ超人的ですらあり、この瞬間敏幸は人よりも神に近い存在となったと解釈することも可能だろう。しかし本論ではその立場を取らず、敏幸をむしろ1人の人間として扱う。

なぜ敏幸は陽左志を赦したのだろうか。思うに、陽左志の罪の告白を赦すことで、敏幸もまた自らの罪を赦すことができるからではないだろうか。

敏幸は陽左志の告白を受け止めない選択もできたはずだ。しかし、彼はそうしなかった。それは罪を赦さないことで、また自分をきっかけに家族がバラバラになってしまうことを恐れたからではないだろうか。前述した通り、敏幸が自らの罪として認識しているのは、よそ者の自分が家族を壊してしまったことである。陽左志が明かした事実を敏幸がどのように受け取ったかは定かではないが、怒りや憎しみを表すことなく赦しの言葉をかけたのは、陽左志の罪を受け止めることで、兄弟の離散を阻止し、同じ過ちを繰り返さないためではないだろうか。そうすることで、敏幸は自身の罪を赦そうとしたと、考えることは可能だ。

ただ、敏幸が陽左志を赦したところで、陽左志の罪が消えることはない。「月」では敏幸の視力回復という形で陽左志は罪自体からは解放されるが、「海」では陽左志は自らの罪の結果と隣り合ったまま、この先もずっと生きていくことになる。しかし、それは必ずしも不幸なことではない。陽左志は幸福になるために「人前で号泣する」必要があったが*2、実際罪の告白に伴って涙を流し、幸福への切符を手にしている。そして敏幸も陽左志を赦すことで、自らを赦そうとするが、過去に家族が離散した事実は変えることができない。つまり、陽左志の罪の告白は根本的な解決をもたらすものではなかったが、笑原兄弟を罪の意識から「は」解放することができるものだったのである。

また、「海」が母親不在の物語であることも触れておきたい。

「母なる海」とはよく言うものの、実際にこの物語に出てくる子どもたちは、全員母親との死別を経験している。敏幸や陽左志は父親の失踪後に事故で母を喪っているし、海月もこの土地に来てすぐ母を事故で亡くしている、笑原兄弟の異母妹も、母を亡くしていて、父と2人で暮らしていることが劇中で語られる。「月」では写真のモデルの母親がキーパーソンとして出てくるため、おそらくこの設定は意図的なものだろう。

しかし、そんな母亡き子らが、最後には笑原家の父と共に家族のように1つテーブルを囲み、笑みを浮かべる。海とは、そんな彼らの居場所を意味するのかもしれない。

そして、自らをずっと笑原家のよそ者として位置付けていた敏幸は、このつながりの中に、やっと本当の居場所を見つけたと、そう願いたい。

 

↑ ↑ ↑ おわり ↑ ↑ ↑

 

……とまあ、拙いにもほどがある論考をまとめてみたのですが、こうやって考えてみると、「月」がハッピーエンドで「海」はどちらかというとメリーバッドエンドのようにも見えてきます。

が、やっぱり私は「海」に救いを見てしまいますね。罪自体が消えることはなくても、赦されることで幸福を約束されるのは、すごくやさしいことのように感じられるので。過去の過ちが100%清算されることって、実際そうそうないことだと思いますし。

あと、これは個人的にですが、全盲だった敏幸がまた見えることになるのが幸せだと言ってしまうと、実際に見えない人を否定することにならないかな、という懸念があるから「月」をハッピーエンドと言ってしまうことにためらいがあります。確かにこの世の中、自分を含め目が見える人をマジョリティとしてあらゆるものが設計されているので、目が見えなければ不便ではあると思うのですが、見えるようになったことを幸せと言ってしまうのは、マジョリティの傲慢ではないかと思ってしまうのです。まあ、当事者でもないくせにこういうこと考えてしまうのもマジョリティの傲慢に過ぎませんが。

それと、「月」は敏幸とパートナーの関係に若干いびつさを感じてちょっぴり怖いんですよね。29歳の相手が10代後半で……しかも中途失明して……敏幸の介助が必要になって……この子は敏幸しか知らずに生きていくのかもしれんと思うと怖くないですか……。これは自分が敏幸の方に年齢が近いからそう思うのかもしれませんが……。

 

 まあとにもかくにも舞台版末路、噛めば噛むほど味のする最高すぎるコンテンツでした。結局言うことがこれに尽きてしまう語彙力のないオタクの末路。

 

 

 

 

あと演者の話もちょっぴりだけさせてください。まだ書くのかよってかんじですけど。

 

■横尾さん(月Side 笑原敏幸役) 

目が見えていない演技のリアリティがすごすぎて、本当に見えてないと思った。

セットの端っこに立つとき、見えてなくて落ちちゃうんじゃないかと思ってすごくハラハラした。そのくらい見えてない。まず舞台上に現れた瞬間にこの人目が不自由な方なんだ、とわかるくらい細かい演技をする。白状というアイテムがないのに。すごい。

どっちかというとドラマ向きの人かなーと思う。ドラマ版末路見ててもすごくいい味出してるし。癖のある役とかやるとすごくハマりそう。

セリフを喋るといつもの横尾さんのほよほよ感があってとてもかわいかった。あとサーモンピンクが似合いすぎ優勝。

 

■千賀さん(月Side 笑原陽左志役) 

多分この中で一番憑依型の演技をするんじゃないかと思った。

罪を引きずって生きる陽左志の重々しさが表情や言葉の端々に滲んでいて、見ていてすごく苦しい気持ちになった。

大変申し訳ない気持ちになったのが、時折目の奥から光が消える瞬間があって、そこにすごく闇を感じた。敏幸が犯人の手がかりになる帽子を見たらどうしようと考えている場面のとき、帽子を燃やすか敏幸を殺すかどっちかするんじゃないかと一瞬身構えてしまいました。陽左志がそっちに振り切れることがなくてよかった。

でも海月やマユコに対して見せる人当りの良さとか、コントパートの時のノリの良さが良いアクセントになっていたと思う。コントパートは割といつもの千賀さんに近い部分もあり、大変面白かった。千賀さんのクソデカリアクションで救われる命絶対にある。

 

■宮田くん(海Side 笑原敏幸役) 

声優経験者だけあって滑舌良いし声の表情が豊かすぎる!

突き落とされるときの悲鳴とかめちゃくちゃすごい迫力でしたね。あんなん聞いてしまったら夢に出てくるし一生もんのトラウマですわ(ほめてます)。

滑舌がとてもよくて、言葉が聞き取りやすいのは普段からですが、それが存分に生かされてましたね。それに、会話のテンポがすごくいい。演技をしつつも自然に聞こえるトーンで日常の会話などしているのが大変良かった。

宮田くんから滲み出る善人オーラ、役のはずなのにあまりにも嘘がなくてもはや人徳のレベルだし、陽左志を赦すシーンなんかは菩薩に見えた。ありがてえ。拝む。

 

二階堂高嗣くん(海Side 笑原陽左志役) 

ドラマは前3人の仕事、自分はバラエティ班ってどの口が言ってるんですか???

いやこれだけで別記事書いた方がいいくらい言いたいことしかないし多分そのうち書く。

ドラマ・映画の出演数少ないっていじられてる人間が見せるクオリティの演技ではない。お花畑の贔屓目っていわれてもいいんですけど、たったあれしかドラマや映画に出てなくてここまで出来ちゃうの、才能でしかないのでは???

無限に言いたいこと出てくるしもう無難に股下5mあったとだけ言いたい。ひざ下がそのうち3mを占めてる。

世界は早くこの才能を見つけて。

 

 

 

大体言いたいこと言った気がする。

同じ配分で語るということがとても苦手な人間なので、大変申し訳なく思っている。

この舞台、敏幸と陽左志の組み合わせ変えたらまた違った兄弟像が浮かび上がったりして面白いだろうなーと思った。あと、横尾・千賀ペアで「海」をやっても、宮田・二階堂ペアで「月」をやったりしても面白そう。とにかくいろんな可能性を考えてみたくなる本当に面白い作品でした。

受注生産という形ですが、DVDを発売してくれた方々に感謝です。DVD化の要望を出し続けてくださったファンの方々にも。

新規がこの作品を見るきっかけをくれたすべての人に感謝。

ほんとうにありがとうございました。

 

 

 

 

 

二階堂高嗣、まじで演技の仕事嫌になるほどやってほしい。絶対天下狙えるって。

 

 

 

おわり

*1:メタ的な視点から言うと、あの一連の下りはおそらくキスマイ、そして舞祭組ファンに向けた本筋とはやや外れたファンサみたいなものと考えた方が良さそう、とここに添えておく。

*2:作中で電器屋の親父が占った結果である。これは当たる占いとして作中で描写されるので必要な工程であるのは確実。