劇団四季『ノートルダムの鐘』2023/6/21公演

劇団四季ノートルダムの鐘』を見てきた。

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ディズニー版の同作は数年前に鑑賞してからずっと好きだ。ディズニー版の結末に対して「結局顔で選ぶのかよ」とか言う奴に何もわかっちゃいないな!!!と説教しそうになるくらいにはあの結末に納得している。なんならサントラもTSUTAYAで借りたしひとりでカラオケ行ったときに「天使が僕に/罪の炎」を入れたりするくらいに曲も好きだった。ただのやばい奴じゃん。

原作も読んだ。当時は諸々のストレスで本を1冊読み通すことも厳しく、そんな状態で岩波文庫の上下巻はキツかったし内容もそんなしっかり追えてたかは怪しいが、とりあえず読み通した。

ディズニー版では相当手心を加えられていたことを痛感しつつ、これはこれで良いな、と思った。
 

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そして今回、初めての四季版だったけども、見て良かった……という感慨が最初にくる。

 

 

ここからは原作もディズニー版も四季版もネタバレする。

 

ストーリーはディズニー版をベースにしつつ、原作のエッセンスがかなりまぶされており、終盤はかなり原作に寄せたエンドになっていた*1

カジモドが難聴者なのは原作に近づけた要素*2だし、フィーバスが女たらしで娼館の常連なのもかなり原作に近い。これについて、四季版では「戦場帰りで心の傷を癒やすため」という手心が加えられているので、優しいなと思った。

エスメラルダはどちらかというとディズニー寄りの造形である。原作のエスメラルダ、カジモドにあんなにやさしくしないからね…。そもそもエスメラルダとカジモドがまともに会話できているのがディズニーの加えた手心でもあると思う。

フロローはどっちに転んでもやばい(雑)と言ってしまいたいところだが、四季版の冒頭でバックグラウンドが明かされたので、原作とディズニー、どちらとも分類しがたい造形になっている。

四季版のフロローにはともに教会で育った弟がおり、唯一の肉親である弟を愛していたが、弟は放蕩の末、”ジプシー”*3の女と駆け落ちし、彼女との間にもうけたカジモドをフロローに託して死ぬ。

「罪深い弟の息子」という前提があるため、カジモドはフロローにとって、過ちを犯さないように導かなければならない相手である。そのため、カジモドに対してかなり愛情深く接するのが印象的である。まあ、独善的なんだけども…。

冒頭でも言ったように、キャラクターたちは原作に近い結末を辿る。エスメラルダは火炙りにされ、カジモドに救出されるも彼の腕の中で息絶える。エスメラルダの死をカジモドは嘆き、主人の所業に怒り、フロローを殺す。大聖堂の地下でカジモドはエスメラルダの亡骸を抱きしめながら死ぬ。フィーバスはおそらく生き残るもその後は不明*4

 

ここからはパフォーマンス面の話。

やっぱり劇団四季はパフォーマンスのクオリティが高くて満足度が高い!みんな歌がうまい。演技の説得力がすごい。メインキャストだけでなくサブキャラクターやコーラスの人たちも歌がうますぎるので、この劇団の中でネームドキャラを獲得するって相当大変なんだろうな…と思った。

 

カジモドを演じていた山下泰明さん、ずっとカジモドの姿勢(背中が曲がって両膝が開き気味の状態でよたよたと歩く)のまま、側転したり細い欄干の上を歩いたりと、驚異的な身体能力だった。カジモドが自身の願いを歌い上げるところでは魂が震えた。すごい歌声だった。

個人的に印象的だったのは、カジモドが石造や鐘といった「ともだち」と会話しているときと、第三者と会話するときで、言葉の発音が少し違っていたことだった。「ともだち」と会話しているほうが流暢に言葉を発しているように聞こえた。フロローやエスメラルダなど、外の人間と会話するときはややたどたどしく発音する。このカジモドには難聴者の設定があるので、自分の中での会話と外から見た姿の差があるのだと解釈できて、そういう演技ができるのがすごいと思った。

あと、エスメラルダへの死をきっかけにフロローへの信頼が憎しみに転じるところ、カジモドが抱え続けてきた怒りややるせなさが放出されていて見ているこちらも苦しくなった。自分の無力さを嘆くシーンといい、カジモドの純朴さだけでなく、悲哀や暗い部分に説得力を持たせるのがとてもうまい…。

カーテンコールのときに出てきたときは少し小柄なかわいらしい感じの人で沼じゃん…って思った。

 

フロローを演じていた野中万寿夫さんはとてもクールなイケオジだった。終演後、「フロローめっちゃイケオジだった!」という感想が聞こえてくるくらいかっこいい。

野中さんの演じるフロローは、カジモドへの態度には愛情が滲んでるし、厳しさの中に優しさすら見える。そこに「ご、ご主人様~~~!」ってなりそうになる、なりそうになるけどやってることが抑圧なので…。

エスメラルダに抱く情欲に関しては、すべてのコンテンツでそうなのでこういうしかないんですが…本当に気持ち悪かったですね(褒めてる)

あと、私が大好きな「地獄の炎」を生で聞けて本当によかったです。童貞拗らせカトリック権威主義おじさんの恋情認めたくないから責任転嫁しちゃえソング。クソミソに言うじゃん。でもこの汚い感情があまりにも「人間」の感情で、荘厳なメロディーとのちぐはぐさが好きなんだよな~。あさましい情欲を荘厳なメロディーで正当化しようとしている感じがまた人間臭い。まあ権威主義的な態度はダサいですが。

あと今作でフロローが排外主義者として描かれていたの、アメリカで上演されたミュージカルとしてはかなり重要なんじゃないかな。この物語に善も悪もないと演出家は語っていたけど、多人種国家だけども白人以外は依然マイノリティであるアメリカ社会において、あまり肯定的に描かれるべき人間ではないでしょ…。

フロローが肯定的に描かれる社会、私はあまり健全とは思えないかな。

 

エスメラルダを演じていた山崎遥香さん、低音の響きが妖艶でとても綺麗だった…!スタイルも良いし、最初の舞踊のシーン、かっこよかった!

私は(ディズニー版)エスメラルダが大変に好きなんですよ。誰にでも分け隔てなく優しくて、自立した考えを持ってて、本当に好き。

エスメラルダ、カジモドと会話するとき絶対にカジモドに視線を合わせて喋る。そしてカジモドが読唇術で相手の話を理解してると知ってからは、必ず顔を見せて口の動きを大きくして話す。こんなんカジモドじゃなくても好きになるにきまってるじゃないですか…!

大聖堂でミサに参加するときも、自分のことよりも世の中の不平等がなくなるように祈ってて、美しい…って思う。こんな推しの姿を見せられたらフロローじゃなくても拗らせちゃうじゃんね…(キモオタ的理解やめな)。

フロローが自分に抱く情欲を視線に感じ取ってしまうのとか、フロローに目をつけられたことで破滅へと追いやられていくのとか、その時代の女性の無力さとか、”ジプシー”としての立場の弱さとかを感じてしまってとてもつらく感じた…。

フィーバスを演じていた光田健一さん、スタイルが良すぎ。背が高いし脚も長い。もちろん歌や演技もすてきなんだけど、あまりにもスタイルが良すぎて舞台上に現れるたびに何この等身!?現実!?って目を疑ってた。本当にそのくらいスタイルも顔も歌も良いので二枚目としての説得力がえげつなかった。

ディズニー版ではフィーバスとエスメラルダが最終的にくっつくので、よく「ただしイケメンに限る」的な感想をたくさん目にしますが、でもエスメラルダを取り巻くカジモド・フロロー・フィーバスのうち、エスメラルダを一番人間扱いできてたのはフィーバスだと思ってるんですよ。

カジモドはエスメラルダのことを醜い自分に対しても優しく振舞ってくれる「天使」だと思ってるし、フロローは神の教えの元正しく生きてきた自分を誘惑する「悪魔」*5だと見なしている。それに対して、フィーバスは初見こそ「天使」だと思うけれども、エスメラルダにまっすぐぶつかっていくことで、彼女の抱く願いを理解し、地位を捨ててまで彼女と共に生きようとしてくれるんですよね。「天使」とか「悪魔」みたいなフィルターを介さず、ちゃんと自分の考えを聞いたうえで選んでくれる人がいたらさあ…そのうえスタイルもよくて顔も良いわけですよ…そりゃ選ばれるでしょうよ!?これってフィーバスがイケメンだから選ばれたとかそういう単純な話じゃないじゃん!?

言うて四季版も女癖は悪そうだし、原作の彼は普通にクソ野郎だったと記憶してるので、原作のフィーバスについては「ただしイケメンに限る」って言われたら「あーね」ってなる(感性が両極端なんよ)。

 

ここまで物語の渦中にいるメインキャラクターたちについて語ってきたが、もちろん彼らが立つのは周りを固めるサブキャラクターやアンサンブル、クワイアの方々がいてのことである。

クロパンは”ジプシー”のリーダーとして、道化の祭りや奇跡御殿などの非日常的なシーンを確かなパフォーマンスで支えていたし、アンサンブルの方々はある時はカジモドの「ともだち」、ある時はパリ市民、ある時は”ジプシー”の仲間、大聖堂警備隊、娼館の女たちなど、息つく間もなく様々な顔を演じていた。パリという街を舞台に繰り広げられるこの物語を重層的・立体的にしていたのは、彼らの活躍があってこそだと思う。あの変幻自在さは、まさにプロの技だと思った。

そしてこの作品の重厚な音楽は、クワイアの方々がいてこそ成り立つものだと思った。舞台セットの最上段にずっと2列で並んでいた彼らのハーモニーに、物語の序盤から感動させられっぱなしだった。ほんとうにすごい。劇団四季ほんとうにすごい。語彙力が乏しくなるくらいすごかった。

 

作品のモチーフ「炎/火」についても、いろいろ考えた。

フロローはエスメラルダの舞踊を最初に見た時から彼女を「炎」になぞらえてて、彼女に焦がれる自らの葛藤を歌う時も「地獄の炎」という表現を主題に置き、彼女を探すときは娼館*6に「火」を放ち、最後は彼女を「火」炙りにする。

「炎/火」というモチーフは、エスメラルダがフロローにとって「悪魔/地獄からの使者」であることを示すだけでなく、エスメラルダに向ける苛烈な情欲を視覚的にわかりやすくする役割もあったのかもしれない。その意味では、エスメラルダにとっての「炎/火」は、破滅の運命を表すものだったし、それは最初の舞踊のシーンから示されているものだった。

 

演出面でもう少しちゃんと考えたいと思ったのは以下の2点だ。

これらについてはまだ自分の中で明確に答えを出せてないし、あんまり明確に出すものでもないのかもしれない。

  • 主役がカジモドになる瞬間とカジモドでなくなる瞬間を敢えて観客に見せるような演出になっていたのはなぜか
  • カジモドの顔に黒い塗料を塗ることで顔の醜さを表現していたが、最後、カジモドの塗料は拭い去られ、クワイアを除くカジモド以外のキャストに塗料が塗られたのはなぜか

 

こうして感想や持論、とりとめもなく考えてしまうことなんかをつらつら書くことができるのは、この物語の強さであると思うし、この先の人生で見る機会が再び訪れるのだったら、また鑑賞したいと思う。今より歳を取った自分がどうやってこの物語を受容するか気になるし、その時、今こうやって書いたことに対して自分がどう考えるのかも気になる。そういう意味では、自分が生涯噛み続ける物語の1つだな、と思ってる。

ちなみに1つは火垂るの墓で、もう1つはうたの☆プリンスさまっ♪神宮寺レンルートです(真面目な顔)(うたプリは人生)。

 

おしまい

*1:演出家がキャストに「原作小説を読み込むこと」を求めていたり、原作の表現をそのままセリフに採用したと語っていたりする。出典:演出 スコット・シュワルツ氏インタビュー|『ノートルダムの鐘』作品紹介|劇団四季

*2:たしか原作は完全に聞こえなくて口も利けない

*3:ジプシー自体は蔑称なので、引用符付きで表記する

*4:原作ではエスメラルダ以外の女と結婚したって書き添えられるので、この点は手心……って思った

*5:四季版だと、”ジプシー”の女と駆け落ちした弟と”ジプシー”の女の魅力にあらがえないフロローは対比されてて、フロローはそういう因縁めいたものを感じるから彼女のことを余計に悪魔扱いするんじゃないかと思ったりもする。

*6:ここでフロローがためらいなく火を放つのが娼館なのもさ…彼の歪んだ潔癖さと正義感がにじんでるよね